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座 禅 猫

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若い友へ

若い友へ
 


書類を整理していたら、昔の手紙が出てきました。アーカンソーに留学しに来ていた日本の若い友達からの手紙とその返事の控えです。

彼女は当時16歳だったと思います。ステイ先のホスト・ダッドは牧師さん。キリスト教には興味を持っていたとはいえ(だからこそ?)ついていけない、私は違う、という思いをもっていました。

今見ても、私の返事はえらそうに_| ̄|○書いてあるのですが、実はそのころ、彼女が感じていたのと同様の不信感や迷いをもっていました。当時は、ワン・ショットであちこちの教会に行ったり、本を読んだりしていた時期でした。

引用が長かったのでところどころ省略してまとめました。


Dear Rちゃん
 

お手紙、そして絵葉書ありがとう。どこで手に入れたのですか、面影があるねえとだんな君がいっていました。ここベイエリアも(*'99~01滞在)やっと暖かくなりました。なぜかRちゃんのいた1週間はすごく寒かったから、今でも残念に思っています。良い雰囲気のプールやジャグジーがコミュニティーにあったので。ステイ先のアーカンソーは暖かいようですね。


祈りのかたち・・・


さて、お手紙に「芝生に一人寝転んで・・・そんな時は神様を素直に受け止められます。」とありましたが、そこを読んで赤毛のアンの一節を思い出しました。

"Why must people kneel down to pray? If I really wanted to pray I'll tell you what to do. I'd go out into a great big field all alone or into the deep, deep woods, and I'd look up into the sky-up-up-into that lovely blue sky that looks as if there was no end to its blueness. And then I'd just feel a prayer."

まさにRちゃんのしていたことと同じだと思いませんか?

作者の考え方がよく表れているところだと思います。後に牧師婦人になるモンゴメリですが、そのアンの祈りのとらえ方、当時の「Good Christians」には、「異教徒的」(作中マリラやリンドのおばさんがよく使っていますよね)なことだとわかっていたのでしょうか。その後、"
Marilla felt more embarrassed than ever."と続けています。

こうしなさいといわれた祈り方ではなかったけれど、アンは心から神様の存在を「感じて」いるのですよね。


「感じる」ということ・・・


・・・Rちゃんが"If I don't feel God, I can't believe him."と言ったら、ホスト・ダットの牧師さんは"God is faith, not feeling. Christianity is not a religion, but faith."と言ったとか・・・。

私にはなんとなく、文化的な問題が理解を遠くしているように思えます。

というのは、こちらの保守的な場所で育った人の多くは、生まれながらにして唯一神を教えられ、あまたある神々の中から信仰を選び取る(意識する人は)といった風の日本人とは感覚が違うのではないかと思うからです。

「感じる」といえば、私たちにとっては実感し信じることに結びつきます。でも、ホスト・ダッドには、「feel」は、そこはかとないような、頼りないような感覚ととらえられたのでしょうか。


キリスト教を取り巻く文化の違い


日本には、「生き神様」と呼ばれる人が何百人もいるそうです。新興宗教と呼ばれるものもたくさんありますし、古来からの神道、多くの派に分かれている仏教が、日本にはひしめきあい混在しています。あまりにもそれが当たり前で、信仰なんて取り立てて意識しないことのほうが普通かもしれないし、意識して信仰を求める人は、それらのなかからまさに真実と「感じられる」ものを選ぶわけです。

でも、こちらで保守的に育った人たちにとっては、ほとんど絶対的にキリスト教の神がまずあるわけで、faith(信仰)もつように小さいときから育てられます。

"Christianity is not a religion."「宗教じゃない」という言葉もその辺からくるのではないでしょうか。きっと、キリスト教を他の宗教と同一にとらえることができないのだと思います。


悲しい事例


そういえば、Rちゃんが来ていたときの話をバークレーの友達にしたところ、彼女の知り合いでやっぱりこちらに留学していた人の話をしてくれました。

その留学していたという人はクリスチャンでした。とても尊敬できるクリスチャン夫婦に出会い、その人たちのようになりたいと洗礼を受けたのだそうです。大学はミッション系に進みました。留学のステイ先は、Rちゃんと同じく牧師さん宅。

ところがその牧師さんと神学のことで口論になり、「お前は地獄に落ちる!」と言われてしまったのだとか。「そんな宗教ならやめてやる!」と彼女は信仰を捨てたそうです。その後の彼女のアメリカ人観も非常にネガティブなものになってしまい・・・。なんだか・・・、すごく悲しいです。

牧師さんには、そんなことを言って欲しくありません。(ちなみに聖書には「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」「『だれが底なしの淵に下るか』とも言ってはならない」と書いてあります。「心の中で」言うのもよくない、って。)だって、人間はそんなこと言えるほどえらいものじゃありませんよね。


人間としていきたイエス


人間といえば、Rちゃん「イエスは人間として生きていたんだと気がつきました」と書いていましたね。まさにその通りで、イエスが人として生まれ、生きたところに恵みと救いがあるとクリスチャンは考えます。「人間としての欲望と感情をすべて持っていたのかもしれない」というのも、その通りだと思います。


信者でない人の救い


なんだか長くなってきましたね。でも、もう少し・・・。私たち日本人にとっては、それならキリストを知らないで亡くなった人の救いは?という問題がありますね。私、これをある牧師さんに聞いたことがあります。

「『使徒信条(信仰宣言)』にあるように、一度死んだもののところへも行ってくださっているほどだし、けちじゃないから大丈夫」と牧師さんは答えてくださいました。そう答えてくださって、納得できたし、うれしかったです。


マリアの子、イエス


阿刀田高のそのエッセイ、私も読んだことあるような気がします。新約聖書のはじめにでてくる系図、あれ、うんざりしますよね。三浦綾子も、そこが退屈で読むときに恋人の名前としてはそんなのいやだなあと思いながら読んでいたとか。

「イエスはヨセフの子だと思われていた」と書いてあります。旧約の時代、救い主はダビデの家系からでると預言されていたいたので、その正当性を表すためにマタイは系図を書いたといわれています。しかし、だから、イエスはヨセフとマリアの子だと言ったら・・・。

マリアの処女懐胎を信じるか、ということですね。うーん、その辺はちょっと説明が難しいですね。ここからは個人的な私の感じ方なので、そう思って読んでくださいね。

イエスの生き方を見て、この人こそ、救い主、神の子だなあ、というのが信仰だと思っています。昔から待ち望まれていた人類の希望。私は信仰の心でマリアの処女懐胎を信じています。そして、それが事実であっても良い。(とても変な言い方ですが。)

この辺のところはとても微妙な問題だし、私の説明では不十分です。だめクリ典型の私がいろいろ言うのもなんだかおこがましいような気がするし。前にも言いましたけど、これはイエスとの個人的な関係なので、難しいのですが・・・。

私は、「信じて」います。

キリスト教に限らず、常識や感覚を超えて信じることがどの宗教にもあるのではないでしょうか。(ただ、聖書には「おい、それはないだろう」ということがたくさん書いてあるので困るのですけどね。信者獲得のためなら私だったら書かないなー、とか。)


日本の教会


帰国したら、日本の教会に行ってみると良いですよ。こちらと違って、クリスチャンでない人の持つ疑問に対応する用意は、どんな牧師さんでも神父さんでもできていると思います。キリスト教に対して違う見方ができると思います。

Rちゃんの手紙、本当にうれしいし、いつもその真摯な態度にうたれます。長々と書きましたが、読んでくれてありがとう。

また、気が向いたときに書いてくださいね。

それでは、残された留学生活を楽しんでね。ダイエットなんて考えず、おいしいものをいっぱい食べてね。じゃあ、またね。

2001年4月26日
いう


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